昭和四十六年十月二十八日 朝の御理解


御理解第八十一節「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。」


 天地書附け、今月今日でたのめと。『生神金光大神 天地金乃神一心に願え おかげはわが心にあり 今月今日で一心にたのめ』今月今日で一心にたのめい。これが金光様の御信心を頂く者の信心というのですね。今月今日でたのんでおると。
 今月今日で頼むという、頼む心がお互いの心の中から希薄になってゆく、薄くなって行く。それで切実なものがなくなってくるとするなら、信心は結局十里の坂を降りて向こうへ降り切るということにならねばならない。『安心にはならぬぞ』という。今月今日で一心にお縋りし、頼ませていただいておるから安心だ。これはまあ、私共が信心のさせていただく者の一番尊いことだと。日々安心して生活出来るということ。それを頼まずして例えば安心しておるというのは、これは本当なことじゃない。まあいうならば『気を緩めるとすぐ後へもどるぞ』と、そういう心がすでに気を緩めておることである。本当にわかればわからせていただく程、今月今日でいわゆる一心に頼めいと仰る。頼まなければおられんのが私達。すべての事が頼まれる。頼まれる、一心に頼んでおるから安心である。
 昨夜、伊万里支部の竹内先生から電話がかかってきました。こんど伊万里市に市民会館が出来た。そこであちらはご承知のように、伊万里焼という有名な陶器の製造するところがいくらもあります。ですから業者の方が記念にでしょうね、等身大の大きな壺を造ったと。今、制作中なのであります。今それに絵付けが、松と鶴の絵をかいておられる。そこでそれに市長さんの筆になる何か一筆書けと言われておるので、何と書いてよいやらわかりませんので、御神意を頂いて書こうと思うからというお電話でした。それなら又お願いしておいてお電話差し上げましょうと言うてお電話を切ったのですがね。昨夜からお願いさせていただいて頂けませんでしたから、そのまま放っておいて今朝の御祈念に改めて頂かせていただきましたら、共励殿に金光様の額がかかっていますね。あの額を頂くのですよ。『道は弧ならず』という。道はひとりでに開けないという、そこに問題がある。難儀がある。様々なそういう問題がある。問題そのものが道を開いて行くという意味だと思うのです。それがその壺に書くことのために相応しいものかどうかわからない。額を頂いたのですから、その字を『道は弧ならず』というこれは金光様独特の表現であろうと思います。私は詳しいことはわかりませんけれども、支那の書物の中にですね、『徳は弧ならず』というのはある。けれども『道は弧ならず』というのは金光様独特の御教えであり、御理解だと。成る程その通りで道は弧ならず。お互いが大きな道に出たい。その大きなおかげ頂くということは、何がおかげに導いてくれるかというと、何かがそこにある。問題が、難儀がある。その問題が、その難儀が道を開いてくれる。
 昨日でした。久留米の佐田さんがお届しておられましたが、私の方の主人が、これは子供の時から、これは主人の心の中に頂き続けておること、いわば思い続けておること、確かにそうだと思い込んでおること。まあどちらかといえば無口な方です。人には話されませんけれども奥さんに話されておることでございましょうね。それは『【困】難汝を玉にする』ということである。これは子供の時からず―っと心の中に頂き続けて、信心をさせていただくようになって、いよいよそれが鮮明にはっきりとそれを心に感じるようになってきた。それは子供の時から、何かそこに難儀なことが起こってくると、それが玉にするのだ。自分自身を玉にするのだ。立派にして行くのだというこの思いは子供の時から、この思いを思い続けて来たとこういうのである。
 私は、『九里半登っても安心してはならん』ということはね、そういうことだと、私は思うのです。ですから、一つも切れ間が無い。いつも自分の心の中にそれを頂き続けておる。ですから、いつ難儀が、又は難儀があるやらわからないけれども、それを『汝を玉にする』というものにしていかねばならないという姿勢が、もう子供の時から家の主人はそうだったと申しておりますと聞かせていただいた。さすが佐田さんだなあと思うた。成る程佐田さんの信心振りを見ておったら確かにそれを感ずる。もうとてもとても私共がかなうことじゃないと、奥さんが主人の信心を、信心というよりもそういう生き方なのです。そういう生き方を見て、只主人が言う通りに、確かに信心がなかった時代の佐田恭造さんの生き方は確かにそうだった。それが信心を頂くようになって、いよいよ本当なものになってきた。もう『道は弧ならず』ということをです、もう思い込んでおられる。その問題があればこそ研かれる。その問題があるからこそ、道は開かれて来るのだと。その問題があるからこそ私自身が研かれてくるのだという思い込みなのだ。そういう例えば思い込みがあるということが、私は絶対九里半登って、そこで一服やれやれといった心は起こってこないと思うです。ですからそれはもう非常に願いそのものが遠大です。
 昨日も、佐田さんところの共励会に秋永先生も出席して、こちらへ見えた。こちらへ昨日泊まられた訳です。皆が帰った後に、それからお風呂に共に入らせていただいて。それこそ時の過ぎるのも忘れて話し込むというのじゃなくて、何というでしょうか、何かが通い合うておるものがじっとこう対座しておるということは、本当に時間を感じない。素晴らしい、いわゆる秋の夜長を、いうなら好きなもの同志が、何も話すこともなからなければというような雰囲気の中に、話がない訳ではない。ぼつぼつお話を聞いたりさせていただいたり、させていただいてもう何時ですかと、もう一時半であります。なら一時 やすませていただこうかと言うてやすませていただいた。
 中で私は話したことなんですけど。私は秋永先生、いろんな事について、ならばこの御造営にしても、こんどそちらに西脇殿が出来るというても、一つもそれがおかげを頂いてという風には思わない。もうこれでよいという風には思わない。これは私がいつも、この御造営の時も申したように、どんなに大きく立派に出来たからというたって、神様が下さろうとするおかげはまだまだそれこそ私共の人間心で思うようなものではない。椛目の時代からずっといろんな事があったが、本当に人間の考えの浅さとか小さいとかいうことに、おかげを受けて見て初めてそこがわからして貰った。ですから神様がまだどの位のおかげを下さろうとしておるのかわからんのであるから。問題は神様が下さろうとするそのおかげを頂き留めさせていただくためにです、只精進するよりほかにないということ。だから、いうならば安心の出ようもなからなければ慢心の出ようもない。安心してはならぬ。いつもが、教祖様の御言葉を借りると、『今中』ということになる。今が真中。どんなにおかげを受けても、今が真中、。まだこれからが大変。沢山なこと、大変なこと。だからそれを頂くためには、とてももうこれまで出来たから、これで一服してよかよいうことはない。私共の信心はひとつお互いがもういっちょ若返らせていただいて本気で長生きのおかげを頂かして貰うて、そういう神様が下さろうとするおかげをもういっぱしに頂いて行こうじゃないですかといったような話をさせていただいたことでした。
 ですから願いそのものが遠大。なら願いが遠大であるだけではいかん。ためにはそこに一つの筋金が通っておらなければならん。いわゆる今月今日で一心に頼めと仰る。一心に頼み続けるその心がです、薄くなって来よりゃしませんかと。勿論一心に頼むということは、どうぞこの御広前が大きくなりますようにと、そういうものではない。まあいうならば私の精進の心というか、私の心の状態というか、それを願い続けて行くということ。その姿勢というものがです、確かに『道は弧ならず』だということをわからせていただく。例えばこれからいよいよ末広に広がり広がって行くことのためには、そこに何かが、だからなからなければ出来ん。だからその何かがある時にです。それを受け立たせていただくだけのものがなからなければならん。だから油断ができぬ。佐田さんが言われるところの『【困】難汝を玉にする』ということがです。少年時代からもう頂き続けて来たことがこれだと。それが信心によっていよいよです、まあいうならば、教祖の御言葉を借りると、『難はみかげ』ということになるだろう。必ずその難がおかげの元になるのだという思い込み。その【困】難こそが私を玉にしてくれるんだという、そういう姿勢がいつもある。それを傍で奥さんが見ておって、主人の確かに主人の生き方から見てそれを感じるとこう言うのである。成る程こういう生き方からならば、油断は禁物というものでなくて、油断をされない。
 神様がどれほどおかげを下さろうとしておるかわからない。そのおかげのきっかけになるような、いつ突発的に起きて来るかわからないけれども、それを受けて立たせていただくだけの心を、今月今日で頼んで行かなければならん。今月今日で頼む。成り行きの中に様々な問題が起きてくる。それを受けさせていただく心を願って行く。しかもそれがわが心。わが心を以って受けて行けれる。和賀心であることを願わして貰う。もうそれこそ今月今日只今である。そういう心が私共の心の中に非常に強い思いでです。思い続けさせていただくということだ。只一つの願いを立てて、その願いのためにというと、その願いが成就するとやはりやれやれということになる。願いが成就しとっても、信心は成就しない。いや成就しとらなくても、やはりそこにやれやれというようなことになる。それを信心に筋金が通っていないから、『道は弧ならず』『【困】難汝を玉にする』それがいわば構え、言葉だけではない。自分の心の中のそういう心がちゃんと入っとらなければならん。ですからその心を今月今日で頼んで行く。又はもしそれが、頼む心がです、漠然としとったり、薄かったりしておるようなことであったら、いわばそこに腰掛けておる自分をわからせて貰うて、大きな願いの立て直しをせなければいけません。
 本当に私共の行き方、神様にそのことを願い続けておらんとです、中々それがくずれて来る。最近すべてのことが、いうならば黙って治められるということ。ということの素晴らしさに、本当にに驚きを感じて毎日を過ごさせて貰っておるといってもよいように思う。行って聞かせてわからせるといったようなことでなくて、黙ってそれが治まって行く治まり方というものは、もう本当に素晴らしいことであると気付かせて貰っておるけれども。ですからそのことを黙って居られるための願いというものをいつも自分の心の中にあるということ。ややもすると、ここで一口言っとかにゃならんといったことになろうとする。うかつにそこんところを、生神金光大神様で言わんで済む、言うちゃならん、言うちゃならんと。言うたら本当のおかげにならんと。それがまだ本当に身についてない証拠に、願って行かなければならん。黙って治める。それが例えば、大体それが段々出来てくるようになる。けれどもそれが子供であったり、家内であったりする場合には、そげなことで行くもんかとか何とか言うことをちゃんと言うてしまう。うかつである。ですから、それとてもやはりおかげを頂いて、言わんで済むおかげ。そして言うた以上、自分の思い以上のおかげを頂かなければならん。
 この頃からどうも光昭の信心が、どうもだらしがなくなっている感じに見受けられる。ですから、これは一口言うとこうかと思わんでもない。けれどもそれは言うてはならん。神様にお願いさせていただいて、光昭の姿の中に自分を見つめて行くといったような生き方に、そう思わしていただいたら、ここ二、三日朝の御祈念にちゃっと出て来よる。どうも言わんでも出来るときに、出来方が違うんです。自分がその気になって出て来よるとですから。そういうその気になして下さるのは神様なのですから。親父が言うたからその気になったというのは、もうそれこそ御粗末なものです。もうそれは本当に有り難い。
 昨日も久保山さんが、【 】さんが一日御用頂いて夕食をいっしょにさせていただいた。家内が御給仕をさせていただきながら、何か思いついたようにしてから、立ちあがって行きました。そしたらまたすぐにやってきて、私が昨日から冬布団を着ておりますからそれを干しとくように言うておりましたのでそれを干しとった。それを干しておったのをね、思い出したらしいです。もう夕御飯の時ですから、夕方。それで途中で思い出して行ったところが、もうちゃんと布団は取り入れて、もう席が敷いてあった。「先生 あなたが取り入れを頂いたんですか」「先から行ったら、未だ干してあるけんで夕方まで干したら 干したが干したにならんけんで入れといた」「そして布団もちゃんと敷いといた」と言うたら非常に家内が感動いたしました。今までの私なら「お前は干しといてちゃんと忘れとったけん俺が入れといちゃったぞ」とこういう訳なんです。それが例えば言うという気も起こらないし。最近私が、まあ私の信心の中に、最近皆さんにも聞いていただいとるように、例えばそれがどういう悪人であっても、あの人にとってはああもあろうと思う心。これが神心といただいて以来、人間じゃけん忘れることもあろう。いやあの忙しさじゃけん取り入れる暇もなかろうと思わしていただいたら、俺が入れてやったとか何か言うこともない。
 もうそこにね、言葉では表現できない程素晴らしい雰囲気が生まれて来るですね。そこに、だからそのようなことが日々出来て来る。言わんで済むようなおかげ。又は光昭の事にせよ、その布団の取り入れた事にしろです、そのことがどのくらいそこに有り難い雰囲気が生まれたり、有り難い心に子供がなって行くかということをです、体験させていただいておるから、もうここに【極】ったと思うておっても、それを願い続けておらんと私共の心は揺らぐです。つい言うてしまう。それが子供であったり家内であったり、いわゆる心【易】いまぎれというか、であっても実をいうたら同じ事だから言うちゃならん。そういう心をやはり願い続ける。それがいよいよ私の心になってしまう。真になってしまうところのおかげを頂かなければならん。その時その時にお互いの信心というものがです、ここに極まった思うような行き方を、自分の中に日々頂き続けることのために、今月今日でたのんで行かなければならん。その今月今日そのことがたのまれておるならば、私共の信心がひたむきに前向きに進んでおることが言えます。
 佐田さんの例をとりました。これは少年時代から、これだけは自分の心にかけ続けて来たと言われる。『【困】難汝を玉にする』とそれがいよいよ信心にならせていただいて、いよいよそれが本当なものになって来たと。それがもう真になってしまっておる。子供の時からそれを思い続けて来た。ですから少年時代に、そういう体験を確かに待っておられるだろう。腹の立つこともあったろう。もやもやすることもあったろうけれども、それを【困】難汝を玉にするんだと思う思い方が、あんな円満な人格をつくり上げていったんじゃなかろうかとこう思う。それがいよいよ信心になられたところに、もういよいよ受ける姿勢というものが、成る程佐田さんの信心振りを見ておると確かにそうだろうなと思うのです。
 金光様が教えておられる『道は弧ならず』今、抱えておる難儀な問題を、難儀な問題としておる。これが私を玉にしてくれるんだ。これがよりよい道を開いて呉れるんだと思うたら今抱えておる難儀というものは、もうお礼の対象でしかないはずなんです。それをやはり難儀と思うておるところにです、徹底した信心が出来ていないということになる。私共がいわゆる信心に徹底するということは、そのまま油断せんですむ、後戻りをせんですむおかげが受けられることだと思います。そういう人の思い込み、そういう思い込みがです、八十一節、もういよいよ広がりに広がって行く、一つのこれが入り口である。八十一節である。八の字にプラスしてゆく、その言わば入り口に入った。このことがわかったということが、だからそのことをわかったのですから、それを本当なものにして行くために今月今日でたのんで行けということになる。そういうおかげを頂き続けて行くために自分の信心を、言わば真の入れどころというものを検討されなければならんと思うのです。
 今日はもう九里半登ったから、もうすぐそこに峠が見えたからやれやれと言わんですむ、言わば根本的なところ、ここのところの信心というものがです、自分の根性の中に入り込んでしもうたら、自分のものになったらもう私は安心だということが言える。向こうへ降りたら安心じゃというのは、そういう思い込みが本当に出来てしもうたところから安心ということになるのです。御教えを頂く、もう私が風呂に入っておろうが、お茶を飲みよろうがもう言うことは信心のこと以外にない。そういうものを話したくて、言いたくてたまらんものがいっぱいある。なのにです、信心の話がもし出来ないとするならば、皆さんの場合出来ないとするならばね。皆さんはね、もう皆さんの信心は腰掛けていると悟っていただきたいです。ね、ここに参って御理解を頂こうともしない。又、私といっしょに戻ってから先生が信心話をしなさんならです。もう私の心の中に信心を受け入れる何ものもないから、ああこれは私はちょっと間違うとるぞと自分で思うてみなきゃいかん。そういう今日私が申しますようなところを本気で求めておるならばです、私は必ず皆さんといっしょに五分でも十分でも居るなら、一口でも私が信心の話をしないはずがない。
 昨夜の私、秋永先生と二人の間の雰囲気ではないですけどね。風呂に入っとろうが、お茶をのんでおろうが、結局信心話に終始する。ようそれは外の話をしよるけど結局ちゃっといつの間にか信心話になってしまう。にもかかわらず私をして信心の話しをさせないような、例えば皆さんに私がもししないならば、皆さんがそこに【帰】ってもらいたい。もう大概わかるしこわかっておるけんと言うて腰掛けておると、私は思うて違いないと思うですね。もう信心ばかりはもう限りがない。私もその限りない信心を頂こうとしておる。だからおかげをこれだけ頂いたからというて、ひとつもそれを頂いたようにも思っていない。また、こちらの信心を追及中でありますから、神様がどういうおかげ下さろうとしておるかわからんおかげを頂きとめるための信心をしとかねばならんという気がいつも心の中にあるのです。油断のしようがない。そこで気を緩められる段ではないということになります。どうぞ。